ツールド沖縄2012

今年、修善寺カップ優勝、チームロード準優勝、個人ロード優勝そしてツールド北海道への推薦1位と勢いよく成績が出た為、僕はNPO法人ツールドおきなわ協会にツールド沖縄に出場したい旨のメールを出した。
協会からは参加の了承を頂き、僕は意気揚々と選手達にそれを伝えた。

そして10月。いよいよ出場選手を選定し、宿泊を含めた行動予定や必要経費の算出をした。監督業を選任としていない私には本業があり、もちろん本業を疎かにすることは出来ない。

25日のレースの為には最低23日に現地入りすることがこのレースの通例だ。
しかし、私の都合で出発は23日の夜になってしまったことは選手達には申し訳ない。

そして、いくらネットで頑張ってみてもレンタカーでワンボックスタイプの車が取れない。
このとき僕は頭の中を、全ての工程を自走で行動する計画に切り替えた。

23日の22時に那覇空港到着ー那覇市宿泊(6人で15000円の宿)
24日の朝レンタカーを手に入れ、そこに全ての荷物を積み込み、選手達は自走で名護のホテルを目指す。(距離60km)
25日レース後再び荷物をレンタカーに積み、自走で那覇市の宿まで移動(270km)
26日11時の飛行機で関空

帰りの工程は非常に厳しいものに思えたが、
・名護市にもう一泊泊まって朝バスで空港へ帰る。
・名護市にもう一泊泊まって自走で帰り空港で輪行する。
・レース後輪行しバスで那覇市へ帰る。
・レース後自走で那覇市に戻る。

僕は少し悩んだ挙句、レース後の自走を選んだ。
朝バタバタするのが嫌なのが一つ。
もう一つは彼らが10年後再会し自転車の話をするときに『こんなことさせられた!もう無茶苦茶やったわ』
と笑えるネタが少しでもあったほうが学生らしくていいと本気で思ったからだ。
そしてこの行動予定は学生クリテ終了後に周知徹底した。

23日ちょっと体調が悪い中、関空で選手と待ち合わせ。かなりテンション低めで申し訳なかった。

24日の朝、選手達を送り出し、僕はレンタカーで名護のホテルに向かった。
ホテルで元チームメートの別府監督@愛三に会い、一緒にチームカーの受け取りに向かった。
昔、学生選抜チームで一緒だった飯野選手@ブリッツェンはもう一流のオーラを纏っており、もう僕の知っている腹の出た飯野ではなかった事は嬉しくもあり寂しくもあった。

昼前に選手達がホテルに到着。昼食後部屋に入りこの後の開会式と夕食の流れを説明し、僕は監督会議に向かった。
この頃にはもう微熱では済まされないくらいに発熱しており、常に風邪薬を服用し眠気と戦いながらの行動になったのは辛かった。
この夏3度の台風による被害が酷いとこのとき発表があったが、実際コースを走ると想像以上に甚大な被害だった。
<風車の羽が一枚破損している>
一通り注意事項を聞き取り、チームカーの17チーム中16番目にがっかりしながら開会式に向かった。


開始時刻に選手が集まらず、チーム紹介が省かれてしまったことは我々にも観客にも残念なことだった。
それ以上に残念だったのは開会式でお偉方が挨拶をしている最中に、日本のトップチームの面々が遅刻しているにもかかわらず平気でダラダラと入ってくる姿だった。
学生を率いている僕から言えばああいったトップ選手の姿は見せたくなかった。
鹿屋大の黒川監督もおそらく同じ思いだったと思う。

夕食後、福島晋一選手と京都産業大の選手とで話をする機会に恵まれた。
選手一人ひとりに丁寧に質問する福島さんと、それに緊張する選手達の表情がたまらなく面白かった。

いよいよ本番に備えたミーティング。
主催者に招待いただいたからには結果を出しに行く。そしてそれは吉岡直哉の仕事。本人もそれは自覚している。
そして残る面子は序盤に積極的に走ることで、主催者に報いることを徹底させる。

鍵本は序盤に設定されているスプリントポイントを意識し、谷口と田中はとにかく逃げてみる。経験の浅い南野はこの大会で自分の力量を計る。
そういった感じで当日の朝を迎えた。

25日、朝6時45分スタート。本当にまだ薄暗い。


僕が最後に参加した2005年とチームカー待機場所やスタートラインが違う為、少々手間取ったが選手達はよく対応してくれた。

スタートして間もなく2人が飛びだしたようだが16番目のチームカーからは目視できない。そして無線の周波数が統一されていないらしく、
その確認作業でコミッセールが忙しく、レース状況が全く入ってこない。
僕はTwitterでつぶやく事でイライラを紛らわした。

本部半島を抜ける頃には10分の差がついていた。
そろそろ鍵本谷口田中が集団から抜け出す予定の時間帯だ。谷口と田中のセットで集団から抜け出そうとするが決められない。
変わって鍵本が有力選手たちと逃げを決める。しかしそれも3km程で吸収。
しばらくドンパチが続き落ち着いたところで谷口がシレーっと集団から抜け出し独走態勢に入った。
数名が追いかけ追走グループが出来上がった。これには安堵した。
レースにきて何も出来ずに終わることが珍しくない中で、谷口には助けられた。

あとは吉岡の成績を睨んだ走りだ。

一回目の普久川ダムの登りでは南野と田中が苦しんだ。がしばらくして集団に復帰した。

そして無線が谷口が追走グループから脱落したことを伝える。
僕は審判車に、前にいる選手のところに行かせてほしいと許可を願い、そしてそれは快く受け入れられた。

少々危ないが集団の横をクラクションを鳴らして上っていく。他の監督がどうかは知らないが、はづかしながら僕はこの優越感に似た感覚がたまらない。
僕は時速100kmで谷口を迎えにいった。

既に全てを使い果たした谷口を写真に収め、ゴールまでの水分と食料を手渡し、集団に飲まれてもしばらくついていくよう励ました。


そしてチームカーを脇に止め、集団を待った。
その場所は100km地点の奥の登り。なにやら集団の様子が先ほどと違う。どうやら香港チームが一つ前の登りで攻撃を始めたらしく、田中南野は脱落。鍵本も着いているのが精一杯の状態で通過していった。

チームカーの隊列に戻ると、その登りで我がチームは4人が脱落し、残り100kmで吉岡一人になってしまった。

各チームが2回目の普久川ダムの登りまでにある程度の追走を開始する。その中でもあらゆるチームが後半戦に備えて補給を取っていく。
吉岡にもボトルを手渡したかったが、こればっかりは選手が呼んでくれないとどうすることも出来ない。

しばらく様子を伺ったが呼ばれるのは他のチームばかり。考えられるのは
・レースに集中しすぎて補給を忘れている。
・ボトルは欲しいがきつくて取りにいけない。
・開催日が例年より2週間遅い為、全然補給を必要としていない。

僕はハンドルを握りながら3番目であることを祈り続けた。
東村を抜け最後の勝負区間へ差し掛かっても吉岡が助けを呼ぶことは無く、残り20kmで数人と共に集団から静かに脱落した。
まだ集団は35人程は残っているか。
僕は苛立ちを隠せないでいた。『昨日もっと補給の重要性を説いておくべきだった!』

僕は吉岡に声をかけず抜いていった。

しばらくするとOBの木守望@愛三が仕事を終え下がってきた。
彼が卒業してから話すことも会うことも稀なので、しばしの再会を楽しんだ。


そこからは、学生のレースでちょっと成績出たからっていい気になってたな〜 
とか 学生のレースの為の練習と国際レースの為の練習は全然違うんだろなー
とか 学生のレース主体の活動に切り替えるべきかな〜
などといった風に考えながらゴールまで運転した。

ゴール後、大粒の涙を流しながら戻ってくる吉岡に状況を聞く。
チームカーを呼んでボトルを受け取る余裕が無かった。
それまでにも何度か集団から脱落しかけ、集団から数メートル離れるのが怖かったと。
それらを解決していくのは経験が大きくものを言うだろうし、彼はまだ若い。

鍵本・谷口・田中が次々に走りきり、途中落車した南野も自走でゴールまで戻ってきた。

一旦ホテルに戻り、予備車輪やクーラーボックスを宅配便にかけた。

本当はゆっくり休ませてやりたいが、グズグズすると太陽が沈んでしまう。

僕はあえてAV35km/Hと言い渡し選手を那覇市まで送り出した。

傾いていく太陽の中を5人が一列に走って行く姿が結構絵になっていて、とても敗走とは思えなかった。


そんな選手達の隊列を伴走していると、先ほどまでのレースの結果のことなど忘れてきて、次こそはと思えるくらいに精神が安定してきた。

大きなトラブルも無く那覇市に着くことができ、選手達には疲労の色が深く見られたが、僕は一人充実した気分だった。
谷口の疲労と吉岡の失望が大きく感じ取れたがあえて気に留めないことにした。

レース後みんなで夕食を共にした。
僕も含めてみんな疲弊しており、とても和気あいあいといった雰囲気ではなかったが、誰一人リザルトを残すことの出来なかったレースの後の食事などこんなものだ。
そして僕は早めに就寝したが、選手たちは遅くまで賑やかな国際通りを徘徊し、沖縄旅行の最後を楽しんでいた様子だった。


今年、京都産業大学は恐らく10年ぶりの参加になったと思う。
そして結果は見事にFADとDNF。
言い訳はいろいろあるにせよ、招待していただいた主催者に申し開きが出来る結果ではなかった。
しかし、もしか来年も今年のような好成績が残せているようであれば、僕はまた主催者に連絡すると思う。
そして、大きな事は言えないが来年こそ今年以上の内容と結果を残せるよう頑張りたいと思っています。

最後になりましたが、招待していただいたツールドおきなわ協会様、また今回の遠征に尽力していただいた皆様ありがとうございました。

京都産業大学 体育会自転車競技部 監督 秋田




仕事を追え散っていく中根@NIPPO中京大