練習日誌(秋田編)

9月11日

山岸コーチ・選手全員・秋田

予定の無い日曜日ということで、久々に監督ヅラしようと選手全員を私の住む烏丸丸太町交差点に呼び出しました。

レーパンを履くのはGW振りです。

朝10時に集合場所に行くと、山岸コーチを始め、選手全員が集合時間をしっかり守って集まっていました。しかし、ウェアはバラバラで、そのへんの初心者レーサーの集まりかと一瞬勘違いするほどです。


とりあえず嵐山方面へ向かうことに。ここが勝負所とばかりに丸太町通で往年の脚を魅せつけようとしましたが、円町交差点を過ぎるころには限界を感じ初めてしまいました。

いよいよ最初の六丁峠。選手全員に今日はゆっくり走ることを厳しく申しつけ、頂上手前50mからのフラフラダッシュと山岸への進路妨害で1着通過。
とりあえず本日唯一の山岳賞を征しました。

続く嵯峨蜜原への登りは集団をコントロールしながら総合に関係無い選手(中村・南野・吉岡)を逃がし、事なきをえました。

道中、木村のフォームを観察しましたが、『学連の選手にこれほど華麗に踏む選手が他にいるだろうか?』と感じさせる美しさでした。
他の総合を脅かす選手たちには、アウター下ハンを言い渡し、軽く総合圏外へ葬り去りました。

続く下りではショーンケリーの如く舞い降り、予定されていた自販機のホットスポットを独走で1着通過。ここでも数秒を稼ぎいよいよ総合優勝が見えてきました。

しかし、この頃には脚も完全に売り切れ、残りの道中が絶望視されています。
今日は気温が32度くらいで、選手達へのハンデとしてボトル無しで走っていたので、クラクラします。

ここで山岸にこっそりとコース変更を申し入れ、『帰りは京見峠をパスして高尾から帰りたい』 山岸コーチの快諾は得られませんでしたが、しっかりとした否定も無く、最後の切り札として取っておくことにしました。このあたりが自転車レースとチェスが比較される由縁でしょう。

水尾への平坦部分は通常『つなぎ』と呼ばれるところでしたが、私は常にアタックを意識し、前へ前へと突き進みました。しかし前半からの攻撃の代償は大きくいくら加速しようとしても服部ごときが着いてき、さらにはカウンターをもらう始末。


いくらハンデを与えているとは言え、きっと彼は『EPOに似た何か合法的な薬物を摂取しているに違いない』と勘繰りたくなるほどキレていました。



笠トンネルへの超級の登りは木村の言う最終奥義を駆使して超えることが出来ましたが、続く平坦基調の下りで繰り広げられる、総合下位の選手のアタックに力尽き集団から脱落してしまいました。



大きく遅れ、すでに総合成績を失ったことは気付きましたが、生命の危機がすぐそこまで来ていることにも気づきました。さすが、選手生活17年です。
これがそこらの根性レーサーだとしたら本当に死んでいたかもしれません。

先ほどの山岸とのやり取りを旨く利用し、99%京見峠に向かったことはわかっていましたが、迷わず直進し、山岸コーチに電話しました。
『どっちに向かうか和からへんかったからR162下ってしもた。このまま帰るわ』

ここからが本当の勝負です。
いつもは意識もせず通り抜けていた高尾の登りも、今日はツールマレーの如く横たわっています。いくらペダルに神経を集中させても自転車が前へ進みません。
命からがら峠を乗り越え、福王子の交差点までたどり着きました。
頭の中の地図を3Dモードに切り替え、ここから家まで自由落下でペダルを止めて帰れるルートを検索しました。
なるべく緩く下りながら帰りましたが円町の交差点の登りは本当にきつく、宇都宮の古賀志林道を彷彿させます。きっと私じゃなかったら超えられなかったでしょう。
そしてその峠を登りきった辺りから、体調が戻り始めやけに踏めるようになってきたのですが、『これはロウソクが消える前の何とやらか』と気づき敢えて踏みませんでした。これが鍵本あたりだとアホ見たいに踏み続けて入院することになっていたでしょう。

帰宅後、すさまじい疲労感の中、シャワーを浴び軽食を取り洗濯機を回し、
『選手たちは毎日この充実感を得ているのか』と少し羨ましくもなりました。
そしてベッドに横たわりこう思いました。

『次は年末か年始やな』

『山岸今日はつきおうてくれてありがとう』

『選手はもっとゆっくり走るかして俺を労われボケ』


監督 秋田